弥生時代をわかりやすい説明で解説
弥生時代
稲作が始まり、食料を縄文時代よりもたくさん保存できることで、争いの起きる社会へと変化していきました。
弥生時代の内容
中国大陸から稲作文化が伝わり、九州地方から稲作が始まりました。稲作が開始したことにより、農具が必要になります。そこで、稲を刈り取る石包丁なども稲作と同時に中国大陸から伝わりました。その他にも金属製の農具が使われていました。
また、稲作が始まったことで、土器も手軽に持ち運べるように軽くて丈夫な土器に変化しました。それが弥生土器です。
この土器で調理しきれない食料は高床倉庫と呼ばれる床が地面から高い位置にある倉庫で管理していました。これはネズミなどの他の動物に大事な食料を食べられないようにするために床を高くしていたのです。
このように倉庫もできたことで、たくさんの食料を保管できるようになりました。そうなると、弥生時代では食料を取り合う争いが起きます。そこで、弥生人たちは稲作を作っているところや自分の家に他の人が入られないように、溝を掘りました。それが環濠集落です。
その他にも、豊作を祈願して銅鐸(どうたく)や銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)・ 銅戈(どうか)などの青銅製祭器で祭りが行われていました。
こうした祭りという思想が発展したことで、埋葬方法もさらに発展していきます。
弥生時代では、集落の近くに共同墓地をつくり、縄文時代とは反対に手足を伸ばした埋葬法である伸展葬で死者を埋葬しました。
また、弥生時代は作物をめぐって争いが起きたことにより、人々に貧富の差が現れます。そして力の強いものは権力者として組織のリーダーがクニを作っていきました。
このことは中国の歴史書である「魏志」倭人伝に卑弥呼が中国の魏という国から親魏倭王の称号をもらいました。邪馬台国は卑弥呼の死後、彼女と同族の女性である壱与が王となって政治をしました。邪馬台国の所在については現在わかっておらず、近畿説と九州説が有力視されています。
弥生時代の流れを掴みやすくなるポイント
①中国大陸から稲作文化が伝わった、
九州地方から稲作が始まり、稲を刈り取る石包丁なども中国大陸から伝わった。
土器は軽くて丈夫な弥生土器へと進化しました。余った食料は高床倉庫で管理した。
→ネズミなどの他の動物に食料を食べられないようにするために床を高くしていた。
②食料をたくさん保管できるようになり、食料をめぐる争いが起きます。
稲作が取らたり、他の人が家に入らないように、溝を掘って環濠集落を作った。
③弥生時代は作物をめぐって争いが起きたことにより、人々に貧富の差が出る。
→力の強いものが権力者としてクニを作る。
代表的な書物
卑弥呼が中国の魏という国から親魏倭王の称号をもらったことが書かれている。
「漢書」地理誌・・・(「かんじょ」ちりし)
権力者がクニを作り、朝鮮半島の楽浪郡に使者を送ったことが書かれている。
紀元57年に倭の奴国(現在の福岡県)の王が後漢(現在の中国)の光武帝から金印をもらったことが書かれている。
代表的な遺跡
菜畑遺跡・・・佐賀県にある遺跡。縄文時代の終わりから稲作が開始されていたことが判
明したことで有名。
板付遺跡・・・福岡県にある遺跡。水田のために水を引いた跡が残っており、高度な土木
技術を持っていたとされることで有名。
纏向遺跡・・・奈良県にある遺跡。大型の建物跡が見つかり、邪馬台国との関係性が考え
られていることで有名。
弥生時代のまとめ
・中国大陸から稲作文化と稲を刈り取る石包丁や金属器などの道具も伝わった。
・土器は軽くて丈夫な弥生土器が登場し、余った食料は高床倉庫で管理した。
→ネズミなどの他の動物に食料を食べられないようにするため
・保管した食料を巡り争いが発生したため、溝を掘って環濠集落を作った。
→卑弥呼などの力の強いものが邪馬台国などのクニを作っていった。
〈参考文献〉山川詳説日本史