飛鳥時代をわかりやすい説明で解説
飛鳥時代の内容
飛鳥時代は、細かなルールがたくさん決まってくる時代です。
行政組織のルールや民衆に負担する税などが決められました。
前半(6世紀初め)
6世紀初めに政治を主導したのは大伴氏でしたが、朝鮮半島についての政策をめぐって勢力を失います。そこで出てきたのが物部氏(もののべ)と蘇我氏(そが)です。彼らは対立していました。しかし、587年に大臣という役職についていた蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、さらには崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺して政治の実権を握ります。そして、推古天皇を即位して、厩戸王らに国家組織を形成させました。そこでできたものが、冠位十二階と憲法十七条です。
冠位十二階・・・個人の才能や功績に応じて官位を与えるという制度。
憲法十七条・・・豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるために仏教を政治理念にした。
また、大陸の進んだ文化を取り入れるために607年、中国の隋に遣隋使を送りました。
このときに派遣されたのが小野妹子、高向玄理(たかむこのげんり)、南淵承安(みなみぶちしょうあん)、旻(みん)です。
さらに630年には中国の唐に遣唐使を送りました。
このとき派遣されたのが犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)です。
中半(6世紀末~7世紀半ば)
6世紀末から奈良盆地南部の飛鳥の地に大王の王宮が次々と作られるようになると、この地は本格的な宮都(きゅうと)になりました。
この時代では、蘇我入鹿が厩戸王(うまやとおう)の子を滅ぼして権力を集中させようとします。しかし、王族中心の政権を目指した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)の力を借りて蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼしました。これを乙巳の変といいます。
この乙巳の変後、孝徳天皇が即位して大王宮を飛鳥から難波に移しました。そして孝徳天皇は、改新の詔を出し、豪族たちの土地を廃止して公地公民制の移行を目指しました。こうした孝徳天皇の改革は大化改新と言われています。
孝徳天皇の後は斉明天皇が即位します。この時期は、朝鮮半島の百済復興を支援するために663年に白村江の戦いをしましたが、大敗してしまいます。そのためこの戦の後、防御政策として対馬などに防人(さきもり)が置かれました。
孝徳天皇の後は、667年に中大兄皇子が都を近江大津宮に移します。その後、中大兄皇子は名前を天智天皇に変えて即位しました。天智天皇は日本で最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作ったことで有名です。
天智天皇が亡くなると翌年の672年に争いが起きます。天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が争いました。この争いを壬申の乱と呼びます。この争いでは天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)が勝ちました。そこで大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらみや)で天武天皇に即位します。
後半(8世紀前半)
701年には刑部親王(おさかべしんのう)や藤原不比等(ふじわらのふひと)らによって大宝律令が完成しました。
・律・・・律するという意味から刑法。
・令・・・行政組織の規定などを定めている。
こうした律令国家では、行政組織のことや民衆のことなどについて細かく決められました。
こうした組織での行政運営は太政大臣や左大臣などの公卿(くぎょう)によって決まりました。
左弁官と右弁官の下にも役職があります。
左弁官
式部省(しきぶしょう)・・・文官の人事などをする
治部省(じぶしょう)・・・仏事・外交事務などをする
民部省(みんぶしょう)・・・民政・財政などをする
右弁官
兵部省(ひょうぶしょう)・・・軍事・武官の人事などをする
刑部省(ぎょうぶしょう)・・・裁判・刑罰などをする
大蔵省(おおくらしょう)・・・収納・貨幣などをする
宮内省(くないしょう)・・・宮中の行事などをする
こうした役職は、蔭位の制により貴族層は父親の位に応じた役職が当てられました。
なお、重要な土地である要地である京都には左右京職、難波には摂津職、九州北部には太宰府が置かれました。
そのほかにも、民衆は戸籍・計帳に登録され、それをもとに口分田が与えられました。
これは班田収授の法で細かな決まりが決められました。
・班田収授の法・・・6歳以上の男女に口分田を与えられました。この口分田は売却でき
ず、口分田をもらった人が亡くなれば6年後に返還させられます。
飛鳥時代の流れを掴みやすくなるポイント
前半(6世紀はじめ~)
そこできたものが冠位十二階と憲法十七条です。
中半(6世紀末~)
飛鳥の地に大王の王宮が次々と作られ、宮都(きゅうと)ができる。
この時代では、蘇我入鹿が権力を握ろうとする。
→中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が中臣鎌足(なかとみのかまたり)らの力を借りて蘇我入鹿らを滅ぼす乙巳の変が起きる。
飛鳥時代の文化
飛鳥時代は2つの文化に別れています。
飛鳥文化・・・7世紀前半に蘇我氏や王族に広められた仏教中心の文化のこと。
(例)飛鳥寺、法隆寺、中宮寺半跏思惟像(ちゅうぐうじはんかしぞう)
白鳳文化・・・7世紀後半から8世紀初頭にかけての唐の影響を受けた文化のこと。
〈参考文献〉山川詳説日本史
古墳時代をわかりやすい説明で解説
古墳時代
権力者である大王がクニをまとめ、日本を統一していきます。その中で、豪族たちは自信の権力を示すために古墳という大きな墓を作ります。それが古墳時代です。
古墳時代の内容
弥生時代の埋葬方法が進化して、前方後円墳と呼ばれる古墳という大きな墓が作られるようになりました。これが古墳時代です。古墳は奈良県の巨大古墳である箸墓古墳(はしはかこふん)を中心に東北地方中部まで広がっていきました。このことから古墳時代は、西日本を中心とする政治連合ができていたと考えられています。この政治連合のことをヤマト政権と言います。ヤマト政権は5世紀後半から6世紀にかけて大王を中心に誕生しました。しかし、大王の勢力拡大に抵抗する地方豪族も現れます。その代表的な豪族が筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)です。そしてこの大名が起こした乱を磐井の乱と呼びます。この乱は2年も続き、大王を困らせました。そこで、このような反乱が起きないように、各地に直轄領としての屯倉や直轄民の名代・小代を設けました。このような対策は、各地の豪族をまとめることに成功し、地方豪族たちはヤマト政権の国造になることで、支配権を認めてもらうという形式になりました。
古墳の主な特徴
古墳時代は前期・中期・後期で様相が変化します。
古墳時代の流れを掴みやすくなるポイント
①弥生時代の埋葬方法が進化して、近畿地方を中心に前方後円墳と呼ばれる古墳という
大きな墓が作られるようになり、東北地方中部まで広がった。このことから古墳時代
は西日本を中心とする政治連合であるヤマト政権が誕生していたと考えられている。
②しかし、大王の勢力拡大に抵抗する地方豪族の筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつ
こいわい)が現れ、磐井の乱を起こす。この乱は2年も続き、大王を困らせた。
③このような反乱が起きないように、各地に直轄領としての屯倉や直轄民の名代・小代
を設けた。この対策は、各地の豪族をまとめることに成功し、地方豪族たちはヤマト
政権の国造となった。
代表的な思想
太占の法(ふとまにのほう)・・・汚れをはらい、災いを免れるために鹿の骨を焼いて占う。
盟神探湯(くかたち)・・・裁判の際に熱湯に手を入れさせて、手がただれるかどうかで
真偽を判定させる方法。
祈年の祭(としごい)・・・春に豊作を祈る祭。
新嘗の祭(にいなめ)・・・秋の収穫を感謝する祭。
代表的な書物
「宋書」倭国伝(「そうじょ」わこくでん)・・・倭の五王が中国の南朝に朝貢していることが書かれてる。
代表的な制度
氏姓制度・・・血縁や政治的関係をもとにして作られた氏(うじ)という組織に編成し
て、姓(カバネ)を与えた代わりに職務を分担させた。
大陸から伝わってきたもの
漢字 儒教 仏教
古墳時代のまとめ
・近畿地方を中心に大王の前方後円墳ができ、ヤマト政権が誕生した。
・大王の勢力拡大に抵抗する地方豪族が磐井の乱を起こす。
・反乱が起きないように、各地に直轄領としての屯倉や直轄民の名代・小代
を設け、地方豪族たちはヤマト政権の国造となった。
〈参考文献〉山川詳説日本史
弥生時代をわかりやすい説明で解説
弥生時代
稲作が始まり、食料を縄文時代よりもたくさん保存できることで、争いの起きる社会へと変化していきました。
弥生時代の内容
中国大陸から稲作文化が伝わり、九州地方から稲作が始まりました。稲作が開始したことにより、農具が必要になります。そこで、稲を刈り取る石包丁なども稲作と同時に中国大陸から伝わりました。その他にも金属製の農具が使われていました。
また、稲作が始まったことで、土器も手軽に持ち運べるように軽くて丈夫な土器に変化しました。それが弥生土器です。
この土器で調理しきれない食料は高床倉庫と呼ばれる床が地面から高い位置にある倉庫で管理していました。これはネズミなどの他の動物に大事な食料を食べられないようにするために床を高くしていたのです。
このように倉庫もできたことで、たくさんの食料を保管できるようになりました。そうなると、弥生時代では食料を取り合う争いが起きます。そこで、弥生人たちは稲作を作っているところや自分の家に他の人が入られないように、溝を掘りました。それが環濠集落です。
その他にも、豊作を祈願して銅鐸(どうたく)や銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)・ 銅戈(どうか)などの青銅製祭器で祭りが行われていました。
こうした祭りという思想が発展したことで、埋葬方法もさらに発展していきます。
弥生時代では、集落の近くに共同墓地をつくり、縄文時代とは反対に手足を伸ばした埋葬法である伸展葬で死者を埋葬しました。
また、弥生時代は作物をめぐって争いが起きたことにより、人々に貧富の差が現れます。そして力の強いものは権力者として組織のリーダーがクニを作っていきました。
このことは中国の歴史書である「魏志」倭人伝に卑弥呼が中国の魏という国から親魏倭王の称号をもらいました。邪馬台国は卑弥呼の死後、彼女と同族の女性である壱与が王となって政治をしました。邪馬台国の所在については現在わかっておらず、近畿説と九州説が有力視されています。
弥生時代の流れを掴みやすくなるポイント
①中国大陸から稲作文化が伝わった、
九州地方から稲作が始まり、稲を刈り取る石包丁なども中国大陸から伝わった。
土器は軽くて丈夫な弥生土器へと進化しました。余った食料は高床倉庫で管理した。
→ネズミなどの他の動物に食料を食べられないようにするために床を高くしていた。
②食料をたくさん保管できるようになり、食料をめぐる争いが起きます。
稲作が取らたり、他の人が家に入らないように、溝を掘って環濠集落を作った。
③弥生時代は作物をめぐって争いが起きたことにより、人々に貧富の差が出る。
→力の強いものが権力者としてクニを作る。
代表的な書物
卑弥呼が中国の魏という国から親魏倭王の称号をもらったことが書かれている。
「漢書」地理誌・・・(「かんじょ」ちりし)
権力者がクニを作り、朝鮮半島の楽浪郡に使者を送ったことが書かれている。
紀元57年に倭の奴国(現在の福岡県)の王が後漢(現在の中国)の光武帝から金印をもらったことが書かれている。
代表的な遺跡
菜畑遺跡・・・佐賀県にある遺跡。縄文時代の終わりから稲作が開始されていたことが判
明したことで有名。
板付遺跡・・・福岡県にある遺跡。水田のために水を引いた跡が残っており、高度な土木
技術を持っていたとされることで有名。
纏向遺跡・・・奈良県にある遺跡。大型の建物跡が見つかり、邪馬台国との関係性が考え
られていることで有名。
弥生時代のまとめ
・中国大陸から稲作文化と稲を刈り取る石包丁や金属器などの道具も伝わった。
・土器は軽くて丈夫な弥生土器が登場し、余った食料は高床倉庫で管理した。
→ネズミなどの他の動物に食料を食べられないようにするため
・保管した食料を巡り争いが発生したため、溝を掘って環濠集落を作った。
→卑弥呼などの力の強いものが邪馬台国などのクニを作っていった。
〈参考文献〉山川詳説日本史
縄文時代をわかりやすい説明で解説
縄文時代
気温が暖かくなったことで、マンモスは減りました。
そのことによって人々も生活様式を変えていきます。
縄文時代の内容
気温が暖かくなったことで、縄文人が食べていたマンモスなどが絶滅しました。
そのため縄文人たちは、代わりに小動物を狩猟するようになります。そのときに使われた道具が石を磨いて製造した磨製石器(ませいせっき)です。
しかし、それだけでは食料は足りません。
そこで、クリやクルミなどの木のみの採集(さいしゅ)や魚を取る漁労(ぎょろう)を行うことで食料を補いました。そのときに使われた道具が骨角器(こっかくき)と石斧(せきふ)です。
・骨角器・・・魚を捕まえるとき
・石斧・・・木の実を砕くとき
このような道具を使って、採取や漁労することで食料をたくさん得ることができるようになりました。そのため、余った食料を貯めておく習慣ができます。そこで利用されたのが縄文土器です。縄文土器は煮炊きをして食料を食べたり、保管するために使われました。土器に縄の模様があることが特徴です。
縄文土器で食料が保管できるようになったことで、人々は歩き回らず特定の場所で住むことができるようになりました。そのため、家が必要になります。そこで竪穴住居と呼ばれる家が作られるようになりました。
そして住む場所が固定されたことで、食べ物を捨てる場所も固定されるようになりました。それが貝塚。ゴミ箱の誕生です。貝塚はゴミ箱なので、割れた土器や食べ残した食料などを捨てていました。
このように、住む場所が固定され、食料も貯めておくことができるようになったおかげで、暇な時間が生まれます。その暇な時間で人々の思想が成長しました。その特徴と言えるのが、妊婦の姿をした土偶です。これらは、人間を含めた動物や自然現象に魂が宿っているという考え方であり、アニミズムと呼ばれます。
思想はさらに発展し、死者の埋葬技術ができました。それが屈葬(くっそう)です。
屈葬は体全体を強く折り曲げ、死者の魂が外に出ないようにするために行われたとも考えられています。
縄文時代の流れを掴みやすくなるポイント
流れを掴むポイントは3つです。
①気温が暖かくなり、マンモスが減ったことで磨製石器を使って小動物を狩ることに。
しかし、それだけでは食料は足りない。
→骨角器や石斧を使って、木のみの採集や魚を取る漁労を行った。
②木の実などを貯めたり、煮るために縄の模様がある縄文土器ができた
食料が保管できるようになったことで、竪穴住居に定住が可能になった。
→住む場所が固定されたことで、食べ物を捨てる場所も貝塚に固定された。
③定住や食料が保存できるようになったことで空いた時間が生まれる。
→人間を含めた動物や自然現象に魂が宿っているアニミズムという考え方が生まれる
そうした考え方から屈葬という死者の埋葬法ができた。
代表的な遺跡
三内丸山遺跡・・・青森県にある遺跡。大規模施設と考えられる竪穴住居がある。
大森貝塚・・・東京都にある遺跡。近代的な考古学調査をモースが行ったことで有名。
縄文時代のまとめ
・気温が温かくなり、磨製石器で小動物を狩るようになった
・植物の採取や魚をとる漁労によって、食料を貯蔵できるようになり縄文土器ができた
・竪穴住居に住むことで、アニミズムという思想が生まれ、屈葬という埋葬ができた
旧石器時代をわかりやすい説明で解説
旧石器時代
旧石器時代は、今からおよそ1万年前の時代です。当時の生活は、石を削った石器と呼ばれるものを使っただけのとてもシンプルな時代でした。
旧石器時代の内容
この時代は、相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡で関東ローム層を発見しました。
この旧石器時代のことを更新中の時代という意味で、更新世と呼びます。
この時代は、ナイフ型石器や尖頭器などの石を打って製造した打製石器で、マンモスを狩っていました。
また、旧石器時代の終わりには細石器という小形の石器が出てきました。
旧石器時代の流れを掴みやすくなるポイント
この時代は、簡単な石を自分の使いやすいように削って、動物を狩っていました。
しかし、それだけでは食料を補うことは難しかったのです。
それに気がついた旧石器時代の人々は、木の実や魚に目をつけました。
この木の実や魚を利用し始めた時代が旧石器時代の次に縄文時代となっていくのです。
代表的な遺跡
日本の旧石器時代が初めて見つかった場所。
相沢忠洋が 関東ローム層の時代に人は住めないという常識を覆した。
・砂川遺跡・・・埼玉県所沢市にある遺跡。
旧石器人が常に石器を持って移動して、他の地域の人と交流しているこ
とが明らかになった重要な遺跡。
・野尻湖・・・長野県にある湖。
旧石器人が狩猟で捕獲していたナウマンゾウの化石が見つかった場所。
中学受験の問題でよく出題される。
覚え方
愛が急接近!旧石器時代と覚えよう!
まだ旧石器で更新中の時代だから→更新世
旧石器時代まとめ
・石を打って製造しただけのシンプルな打製石器を使っていた
・木の実や魚に目をつけたことが旧石器時代の次である縄文時代の始まり
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